真夜中のページ・ボーイ
 
4. 謎の男
 
「────」
 ……? ……あれ……
 
 一瞬ここがどこか、判らなかった。
 高い天井から落ちてくる、ベージュのカーテン、広いベッド、やや落とした照明…。視線を廻らすと、隣にあの男が裸で眠っていた。
 
 ────!!
 
 悲鳴を上げそうになって、慌てて口を押さえた。
 肩まで掛けられていた薄掛けをめくると、自分も真っ裸だった。体中に赤紫の痕が付いている。
「……っ」
 起きあがろうとして、アルコールの名残に襲われた。
 ハンマーで殴り続けるみたいに、頭が痛い。吐き気も込み上げてくる。
 
 ───とにかく、逃げなきゃ……
 
 両手で頭を抱えて、頭痛をやり過ごした。
「───痛ッ…」
 そっと起きあがって腰を動かした途端、今度は後ろに激痛が走った。膝の横でシーツを握り締めながら、深呼吸を繰り返した。まだ何かがそこに挟まっているような、気持ち悪さが残っている。
「……ハァ……ハァ……」
 ───くそっ……
 動けない間、男に視線をやった。起きてしまわないか、心配で。
「────」
 眼を閉じていると、あの凶暴性は薄れる気がした。
 太い眉に、高い鼻梁。
 精悍ではあるけれど、その顔のどこにも……結ばれた唇からも、あの恐怖は感じない。
 ───キケン、キケン、……この男は、危険……
 それでも胸の奥で、小さく警報は鳴り続けている。
 
 ……こんな事されたんだ、当然だろう。
 男の顔を睨みつけ直した。
 
 ───部屋に、戻らなきゃ………
 男を起こさないようにベッドから抜け出すと、床に散らばった制服を寄せ集めた。
 裸のまま絨毯に座り込んで、その一枚一枚を確かめる。
 
 ───よかった。傷んでない……
 
 この期に及んでそんなことを心配する自分が、恨めしい気もする。
 でも、この仕事をずっと続ける以上、僕自身よりこの制服を大事にしなければいけないのは、事実だった。
 
 キツイ制服を着込むと、ワインクーラーとグラスを片づけて、ワゴンと一緒に別館から逃げ出した。
 
 
 時間は、明け方の四時を回っていた。
 まだ全てが寝静まった館内。痛んだ身体には、自分の足音が響くのさえ、堪えた。
 旧館の冷えた空気は、全ての動きを止めて、時間さえ止まっているような感覚にさせられた。
 ここへ来てしまった事への後悔が…胸を一瞬掠めた。
 
 
 でも、やっぱり僕はベルマンで……この仕事が、大好きだった。
 
 ──日勤に食い込んだ時間じゃなくて、よかった……
 “仕事に支障をきたすな”狩谷チーフの言葉が思い出される。
 ──今日一日……身体がもつかな……
 
 とにかく熱いシャワーを浴びて、全身を清めることにした。
 仮眠室の壁一枚隔てた隣に併設されてる古いシャワー室は、足元が冷たいタイル張りで、所々にビビ割れた跡がみみずのように這っていた。
「痛っ……」
 後ろを洗うとき、切れたような痛みがあって、呻いてしまった。
 体中につけられた痕も、酷い数だ。
 これ……キスマーク…? ……なんでこんな───
 琥珀の目が嗤う。両手で顔を覆って、やられた行為を頭から振り払った。
 
 
 ──何なんだ……あの男……
 ……朝倉マネージャーなら、知ってるかな。
 
 
 
「朝倉さん!」
 朝礼ミーティングの後、早速マネージャーを捕まえて、訊いてみた。
「101? 素敵な老紳士よ」
 お決まりな言葉しか、返ってこない。
「他にいる筈なんです、男の人が……」
 納得出来ない僕は、必死に食い下がった。
「あの部屋は、完全に一人よ。食事で判るわ。それに、塩崎君からも、そんなこと聞いたことないし」
 長い睫毛をしばたかせながら、僕を見る。
 その目は、「何言ってんの」と呆れていた。
「ほらほら、今日も忙しいわよ! 持ち場に着いて!」
 僕をフロントに追い立てながら、朝倉さんは小走りに他のフロアへ行ってしまった。
 
 ───いったい、どういうことなんだ?
 胸のモヤモヤが晴れないまま、仕事に突入していった。
 
 その日は言われた通り目の回る忙しさで、却って身体の軋みも痛みも、何とか紛らわす事が出来ていた。
「おう、お疲れ!」
 夕方、野立先輩と廊下ですれ違った。
「6日目にして、ずいぶんと疲れた顔をしているな」
 ニヤリと笑う先輩。
 ホテルマンは厳しいだろ? ……くらいのつもりだろう。
 
「──はい……」
 曖昧に笑い返すしかなかった。
 
 ───あっ!
「先輩! ……あそこ!」
 僕は疲れた手を伸ばして、先輩の腕を掴んでいた。
 引っ張って、振り向かせる。
 真っ直ぐ伸びた廊下の途中、エレベーターホールの前に、男が立っていた。
 
 ───あいつだ! ……僕を、見てる!?
 
 でも、先輩がそこを振り向いた時には、その姿は消えていた。
「なんだよ?」
 眉を寄せて、非難の声を出す。
「先輩……あの、このホテルに……ちょっと変わったお客様……いらっしゃいますか?」
「? ……変わったって?」
「眼が…両目の色が、琥珀色なんです。背が高くて、前髪だけこう、長い……」
「はは、ナニ言ってんの!」
 思い出しながら説明していると、野立先輩が笑い出した。
「いないよ、そんな客。いたらフロントで有名になってるって」
 …………。
「そう……ですよね」
 女の子達は、噂好きだから。
 こんな素敵なお客様が……あんな変わった人が……ちょこちょこ噂話で、情報交換し合っている。あの男が、その会話の中で漏れるとは、とても思えなかった。
「幽霊でも、見たか?」
 先輩が心配そうに、でも口の端を上げながら、僕を覗き込んだ。
 
「……そうですね」
 
 ───いっそ、幽霊ならいいのに。
 ……僕の身体に触ることが出来ない、幽霊なら……
 
「──須藤?」
 僕の落ち込んだ様子に、先輩も本気で心配声になった。ワックスで整えた前髪の隙間から、僕の目を覗き込む。
「なんでもないです。……ちょっと寝不足で。でも今日は、良く寝ます!!」
 
 そう思ってたのに──
 着替える前に休憩室で休んでいると、狩谷チーフがまたメモを持ってきた。
「今日は、ミスが多かったな。明日からはもっと気を張れ」
 そう言いながら手渡す紙片には、また№101の文字と、深夜零時にチェックが入っている。
 
 ──────!
 
「チーフ! 僕、もうイヤです……ルームサービスなんかしません!」
 メモを握りしめて、チーフを見上げた。二晩もあんな事になったら、仕事どころじゃない。
「イヤって、なんだ? 子供の遊びじゃないんだぞ」
 口の端を片方だけ上げて、冷たく笑った。
「ご指名もらって、いい身分じゃないか。イヤなら今すぐ、このホテルを辞めちまえ」
 それだけ言い捨てて、休憩所から出て行った。
「…………」
 昨日と同じで……紙片を握りしめたまま、僕はそこを暫く動けなかった。
 
 ホテルマンは、僕の天職だと思っている。
 ベルマンは楽しい。色々なお客様を案内して、顔を覚えて。
 インの時の疲れた顔が、アウトの時は満足した笑顔に満ちている。チェックアウトの時、次の予約を入れてくれると、もうすごい嬉しい。
「次回お会い出来る時を、楽しみにしております。気を付けて、お帰りくださいませ」
 心からそう言って、笑顔で送り出せる。
 
「…………」
 “イヤなら今すぐこのホテルを辞めちまえ”チーフの言葉が繰り返し、頭に響く。
 
 ───イヤだ。
 ……辞めるのも、……101に行くのも……
 
 シャワーを浴びて、気持ちを落ち着かせた。
 考えたってどうしょうもないことだと、自分に言い聞かせる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「失礼します。ルームサービスをお持ちしました」
 
 昨日と同じように、深夜零時。
 僕は、101号室の前にいた。
 
「来たな、ページ・ボーイ」
 琥珀の男が出迎えた。
「……は?」
 
 ───やっぱり、コイツだ……
 僅かな期待に、自分で賭をしていたんだ。
 昨日だけの、間違いだったら……。今日こそは、本物の老紳士が出迎えてくれるんじゃ……。そんな期待を、心のどこかで捨てきれなかった。
 その瞬間、また僕の中で警報が鳴り始める。
 
 ──危険、危険!──
 ──コノオトコハ、キケン──!!
 
 今すぐ引き返せ! と、警報は鳴り続ける。
 僕は動けずに、琥珀の瞳を睨み上げた。
 
 
別館(ここ)じゃ、まだお前らのこと、そう呼ぶんでね」
「…………」
 ──ページボーイ?
 その声で呪縛が解けたように、僕の身体は動くことが出来た。
 ……コイツの言うことなんか、かまう必要はない。
 それ以上聞き返しもせず、僕は昨晩と同じように、ワゴンを廊下に置いて室内に入った。
 
 ──何故引き返せないのか、そんなの自分でも判らないけど……
 
「まあ、ここに座れ」
 ドスンとソファーに腰を下ろすと、隣を叩く。
 ──冗談じゃない!
「嫌です。……もう、イヤです。あんな事!」
 二択しかないなら、来た上で拒否だ。それしかなかった。
 
「……これでもか?」
 チラリと僕を見て、意味深に口の端だけで笑うと、視線を正面のテレビ画面に移した。
 つられて見た、僕の目に映ったモノは──
 
 ────!!
 
 顔を真っ赤にした僕。
 どう見ても酔っぱらっている。顎を掴まれて、口移しでまたワインを飲まされていた。
 
 
「…………」
 驚いて凝視したまま、動けなくなった。
 画面の中の正体のないベルボーイは、その制服を一枚一枚脱がされて、裸にされていく。
 映像は足先から、股間、胸、顔と移動して、じっくりその裸体を映し出す。再び股間に降りていくと、脚を開かされて……
 
「───っ!」
 思わず目を反らした。
 萎えて小さくなっているモノが、握られて扱かれ出していた。
 見るに堪えない……!
 
 だんだん喘ぎ声に変わっていく、僕の荒い呼吸まで聞こえる。
 「と……止めてください!」
 ソファーの男に叫んだ。
 ───なんだこれ!?
 昨日、こんなの撮ってたんだ……!
 
「良く撮れてんな」
 面白そうに笑う。
 僕は耐えられなくて、男の手元のコントローラーを奪おうとした。
「……あっ」
 伸ばした腕を絡め取られて、男の膝に乗り上がってしまった。
 そのまま僕を抱きかかえて膝に座らせると、背後から羽交い締めに押さえ込んできた。その手で、顎も正面に向けて固定する。
「ちょ……離してください!」
「うるせぇ。見ろよ、ほら」
 
 ────!
 
 画面は、そこら辺によくあるAVみたいに……
 
『ぁあっ! ……ぁあ……はぁ……!』
 
 激しく悶えている、僕の声。
 背後からの固定画面で、逞しい男の尻と僕の股間を、映し続けている。結合部が丸見えで、穿たれるたびに内腿が震えて、嬌声が響く。
 
「や……やだ! ──お願いです! ……止めてください!!」
 
 身体を捩って、男に懇願した。
「酷すぎます……こんなのっ! ……聞きたくもないっ、離してッ!!」
「これ、AVとして、その筋に売りつけてもいいんだぜ」
 
 ────!!
 
 耳元で囁かれた言葉に、僕は硬直した。
「……………」
 なにも、考えられない。
 真っ白になった頭に、追い打ちを掛ける男の声だけが響いた。
 
「ルームサービス。オーダー通りのモノを、持ってきているな?」
「…………」
 僕は腕の中で正面を向かされたまま、無言で頷いた。
 
 ローテーブルの分厚いガラスの上には、さっき僕が置いた、昨日と同じワイン。
 それと、パスタとオリーブオイルが並んでいる。
 
「選ばせてやるよ。ワインと、オイル……どっちがいい?」
 訊かれた意味がわからず、解放された顔を、振り向けた。
 至近距離で、男と目が合う。凶暴な光を湛えて、双眸が黄金色に煌めいた。
「ここの口には、どっちがいいかって訊いてんだよ」
「………あっ」
 スラックスの上から、後ろに指を這わされた。ぞくりと、背中を何かが這う。
「や……」
「早く決めろ」
 膝の上で藻掻きながら、僕はもう一度ローテーブルを見つめた。
 ───ワインは、辛すぎだ……。
 あの、内臓が灼けつく様な感覚は、もうまっぴらだった。後遺症も、激しかったし…。
 
「…………オイル」
 
 僕は、絞り出すような低い声で答えた。
 


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